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古い奴だとお思いでしょうが・・・

2016年04月24日 09:30

最近「テネシーワルツ」ばかり聴いている。

誰もが知ってる超スタンダード曲に今更ながらハマってしまったのには理由がある。

飲み会終わりに立ち寄ったスナックで、30代前半の女性が、しっとりとこの歌を歌い上げていたのに驚いたのだ。

どうしてこんな古い曲を歌うのか尋ねると、母親がよく歌っていて子供の頃から一緒に口ずさんでいたらしい。

日々二中合唱で鍛え上げられ、少々の歌唱力では驚かない私も、しっとりと歌い上げる彼女の歌声は実に味わい深く、ソファーに身を預け目を閉じ聴き入ってしまった。

「去りにし夢 あのテネシー・ワルツ」ではなく、「I remember the night And the Tennessee Waltz」だったからかもしれない。

後日動画サイトで、おなじみPatti Pageの「Tennessee Waltz」を探し出し、改めてこの歌をヘッドフォンで聴いてみた。

あんなに人の心を揺さぶる声の持ち主だったとは!

これまでテレビやなんかで何度も歌声を見聞きしていたのに、まるでカーペンターズのカレンが生き返って私の耳元で囁いているように聴こえてくる。

優しくて繊細、それでいて凛とした歌声は私の心を捉えて離さなかった。

諸氏同様、たぶん私も江利チエミの「テネシーワルツ」を知らず知らずのうちに耳にし覚えた世代である。

私は大人になるまで、フォスターが作った曲を邦訳して江利チエミが大ヒットさせたと思っていた。

それが何かの機会に、もともとこの歌はPatti Pageというアメリカ人歌手が歌った曲だとわかり、妙に納得したことを覚えている。

いかにもカントリーミュージック然とした曲だからだろう。

Patti Pageの名前はその時に知り、それ以降「テネシーワルツ」といえば江利チエミより彼女のほうがシックリくるようになった。

江利チエミの歌う「テネシーワルツ」が嫌いというわけではない。

ただ、どういうわけだかハスキーボイスで歌う彼女を見ると、私は水前寺清子が思い浮かぶのである。

話は変わるが、水前寺清子といえば熊本。

やがて地震も落ち着き、インフラ復旧が進みだす時、さあ彼女の出番だ。

♪ 百日百歩 千日千歩 ままになる日も ならぬ日も~

これほど励みになる歌はないと私は思っている。

明るく元気でストレートで、NHKのいかにも震災用に作りましたという歌いづらいチャリティーソングなんかよりよっぽどいい。

チーターの登場を心待ちにしているのは私だけではないはずだ。

閑話休題

そのせいかこれまで一度も真剣に耳を傾けることはなく、高倉健が映画の中でこの歌を口ずさむシーンを見てほろっとしたくらいの記憶しかない。

今はほとんど視聴しなくなった「日本名曲アルバム」の中でも、「テネシーワルツ」が演奏されていたように思う。

その時どういうわけか私は、深い味わいのある曲だなぁと感じ入ったのを覚えている。

これまで何度も耳にしてきたはずなのに、改めてアメリカンスタンダードの王者であることを認識させられた。

ズンチャッチャッ、ズンチャッチャッと、まるで時を刻むようなゆったりした三拍子は、弾むようなウインナーワルツとは全く趣が異なる。

郷愁を掻き立てられるメロディーとの相性は抜群で、今聴いても、フォスター作曲と言われたら違和感なく頷いてしまいそうだ。

しかしやはりこの歌はPatti Pegeの声で聴きたい。

例えのレベルが違いすぎて恐縮だが、涙そうそうは夏川りみに限るというのに似ていて、あまりにイメージが出来上がった歌はそれ以外だと違和感が先立ってしまう。

Patti Pageの「Tennessee-Waltz」を知らないという人がいたら、YouTubeに高音質な音源があるから聴いてみるといい。

私はよく二中に歌って欲しいポピュラーソングをあれこれ夢想したりするけれど、この歌もその一つである。

しかし考えてみると、こういう郷愁を感じさせる曲こそ五中合唱の出番かなとも思う。

この歌が胸に沁みるという中学生はさすがにいないだろうが、マエストロのマジックで古き良き時代のアメリカに誘ってくれるかもしれない。

五中には懐かしのテネシーワルツ、そして二中には弾むようなウインナーワルツが似合っているように思う。

二中でも五中でもいい、いつか私を夢見心地にさせる素晴らしい声を持つ美貌の歌姫が現れたら、その時はパティーペイジと命名することに決めてある。

いでよ!二中のパティーペイジ

いでよ!五中のカレンカーペンター

なお、二中には、「アグネタ」というのも用意してある。(笑)



明日へコンサート3

2016年04月10日 22:48

「震災から5年 明日へコンサート」は、セカオワと二中の共演のみ視聴したわけでなく、引き続き番組終了まで付き合った。

二中以外で印象に残ったのはプリプリとさだまさし。

昔プリプリは大好きだったのに、すっかり声の出なくなってしまった奥居香にはガッカリさせられた。

もう一度ステージを見たいというファンの要望に応える形で再結成したのだろうが、私自身はもはや声の出なくなった歌手は痛々しいだけにしか見えず、なぜ衰えた姿をわざわざ観衆にさらすのだろうと思ってしまう。

ダイヤモンドはじめ数々のヒット曲は懐メロの範疇に入れていいほど人々の記憶に残っている。

それだけに輝きをすっかり失くした今の姿は見たくないのだ。

長いブランクがあるとどうしても昔のようには声が出せなくなるのは、奥居に限らず森昌子なんかもそう。

驚異的な歌唱力で人々を唸らせたのは大昔の話で、昔とった杵柄、ネームバリューを頼りに歌ってますといった感じがして痛々しいことこの上ない。

それでも熱烈なファンというのは歌う姿を拝みたいのだろうか。

私があれほど好きだった岩崎宏美、松田聖子も今や昔の影はどこにも見ることが出来ない。

容姿の衰えを言っているのではなく歌唱力の衰えを嘆いているのである。

歳を重ねて声が出なくなるのは自然現象だからしかたない。

でもそれなら姿を晒すなと言いたくなる。

両手ではとても足りないほどのヒット曲は、レコードやCD、そして記憶の中にしっかり納められているから、私には御本人の登場は必要ない。

五木ひろしや石川さゆりなど、いまだ喉は衰え知らずというのでなければ、早々にお引き取り願いたいものだ。


さだまさしの「Birthday」は良かった。

「家族に乾杯」の主題歌だから多くの人が聴き入ったに違いない。

さだメロディーとでも言うべき明るく空高く響き渡るようなサウンドが魅力的だ。

何よりあなたが元気でよかった♪ 生まれてきてよかった♪

この曲自体は昔から知っていたが、心に響くようになったのはここ何年かである。

歳を重ねたからこそわかるというのは本当なのだと実感した曲でもある。

さだまさしとよく較べられる谷村新司も名曲が多いが、人を想う心温まる歌詞と旋律の美しさはさだ作品固有のもので、谷村新司にはない極めて高いオリジナリティーがあると私個人は思っている。

それゆえにこの曲などは合唱にうってつけじゃないかと思い、動画サイトを覗いてみた。

いくつかの動画がアップされていたが、これは合唱団の問題なのだろう、せっかくのさだメロディーが全然生かしきれてないのが残念だった。

もっと澄んだ声で高く明るく歌える合唱団なら、深い感動のある演奏ができたに違いない。

そういう合唱団はないだろうか?

ありますよね?

◯◯◯中なんてピッタリじゃないでしょうか?(笑)

この団体の特徴である華やかな歌声は、「涙そうそう」なんかより「Birthday」の方がよほどしっくりくるし、「道化師のソネット」という選択肢もある。

もちろん単独で歌うという手もあるが、やはり明日へコンサートのような形で実現すれば嬉しい。

もともとNHKには好かれているわけだし、さだまさしだって快諾してくれるはずである。

ギターを抱いたさだまさしが学校訪問、彼はトークが面白いから部員の個性を引き出してくれるはずだ。

その後は全員で「Birthday」の練習だ。

「プレゼント」同様、十代の彼らにも十分共感できる歌詞だし、メロディーの美しさも感情をのせやすいのではないだろうか。

おまけに伴奏はギター一丁だから、彼らの歌声を100%堪能できる。

来年とは言わない、再来年以降でいいから、また夢の共演を見させてもらえないだろうか。

あの夢のようなステージ模様が脳裏に焼き付き、やめようにもやめられず、もっともっと欲しくなる、まるでシャブ中にでもなったような感覚である。(笑)


唯物主義者?

2016年04月09日 22:33

「SONGS~合唱スペシャル」を観た。

二中が出るかもしれないと手ぐすね引いて待ち構えていたのに、肩透かしを食らった。

録画を消去したので正確ではないかもしれないが、過去のNコン課題曲が順に紹介され、中学生のその曲に対する思いを語るという内容だったように思う。

「Yell」「アイラブ」「桜の季節」はともかく、「証」「fight」がスキップされたのは残念。

最後に、今年の課題曲を作ったmiwaが中学生とともに「結ーゆいー」を歌い番組が終わる。

「ゆい」と聞くと私は、条件反射的に「新垣結衣」と「◯◯唯」の顔を思い浮かべてしまう。(笑)

Nコンらしく、ひとりひとり個性を大事にしましょう、あなたの存在はかけがえのないオンリーワンなんですからという意味で「唯ーゆいー」でも良かったじゃないか?などとくだらないことを考えながら観ていた。

NコンHPで見本演奏を見ていたので、だいたいどういう曲かわかっていたつもりだが、miwa本人が歌うとやはり合唱のみとは趣が違う。

私自身はけっこうmiwaが好きで紅白出場の時は欠かさず観ている。

大晦日、難しいことを考えず元気いっぱいに歌うところがいい。

しかしあくまで顔と演奏スタイルが好きなのであって、歌自体にひとつも魅力を感じたことはない。

何と言うか、完全に自己満足ソング、迷い迷い作曲したらこうなりましたとしか私には聴こえない。

歌詞のメーセージは伝わるものの、言葉のアクセントは無視され、旋律の美しさがないというのが私の印象だ。

もちろんトップレベルの合唱団が歌う「結」は全く別物に仕上がるのだろうけど。

彼女の曲が十代の心を掴んでいるらしいと聞くと、それはメーセージ性の高さによるものだろうと思った。

もしもmiwaの曲が歌ではなくインストゥルメンタルで流れたとしたら、またmiwaが森三中みたいな体格だったとしたら、それでも十代は飛びついただろうかというのが偏屈オジサンの考えだ。

もちろん見てくれで歌を好きになるのはよくあることだし、それがダメということではない。

現にこの私だって、二中をこよなく愛し彼等が演奏する曲全て良しと考えているのは、歌唱力のみならず多分に外見にも影響されているような気がする。

仮に、鶴川二中が郡山二中の制服で「プレゼント」を歌い、郡山二中が鶴二のセーラー服を着て(もちろん女子だけだ)「プレゼント」を歌ったとしたら、やはり私はセーラー服姿の郡山二中に軍配を上げるだろう。

何の説明にもなってないがそういうことだ。(笑)

あるまとめサイトで、「人は31歳(だったかな?)までに好きな音楽の傾向が決まり、それ以降はつまらなく聴こえる」ざっくり言うとそんな旨の記述があった。

まとめサイトだから所詮はコピペの世界、そこにオリジナリティーはなく、なんとなく筆者が思ったことを都合よく裏付けるために種々のデータをコピペしただけのものだとは思うが、私に言わせれば「つまらなく聴こえる原因は楽曲自体にもある」ことを見落としているような気がしてならなかった。

ある年齢までに好みの音楽の傾向が決まるというのは頷ける。

しかし私自身を考えてみても、ドリカムやいきものがかりを好きになったのは中年になってからだし(デビューを考えるとそうならざるを得ないが)、フランプールやセカオワは、「証」「プレゼント」以外にも聴かせるだけのいい曲を作っていると思っている。

曲が良ければ少々歌が下手だろうがなんだろうが人は年齢に関係なくその人の作る音楽を好きになる。

若い世代には理解できないだろうが、ここ十何年の歌番組衰退の原因は、人がネットを楽しむようになってテレビを見なくなったからだと言われるが、それは一つの要因に過ぎず、結局はいい歌が少なくなったからである。

昭和歌謡と呼ばれるものが染み付いている中年の私は、作り手の歌詞、作曲レベル、歌い手の歌唱レベルは確実に落ちていると言い切れるし、また同時に視聴者の鑑賞力も低下しているように思えてならない。

以前記事に書いたような気がするが、松田聖子の動画のコメントで、多くの人が聖子の歌唱力を絶賛しているのに驚いたことを思い出す。

私が十代の頃、松田聖子と中森明菜が人気を二分していたが、明菜の歌唱力を評価する者はいても、聖子は歌が上手いなどと言い出す人間は一人もいなかった。

そんなことを言ったら自分がロバの耳だということを認めるに等しいと皆思っていたからである。

当然私もそうだったが、CDを買ったのは聖子の方が多かった。

歌の上手い下手だけではなく、作品自体の魅力が大きかったのだと思う。

呉田軽穂はじめ錚々たるメンバーが作品を作っていたのだから売れて当然だ。

そんな私が今松田聖子を聴くと、もちろん昔の聖子ちゃんだが、不思議と歌に魅力を覚えるのはなぜだろう?

もちろん今でも歌唱力があるとは思わない。

ここ何年か昔の松田聖子を振り返って、類まれな天性の歌声の持ち主だのなんだのと彼女を褒めちぎる番組を目にしたが、これは最終的に大売れしたからそう評価されただけのこと、もし早見優あたりと同列のレコードセールスだったら一顧だにされなかったに違いない。

考えてみれば当時は岩崎宏美など誰もが認める歌唱力をもった実力派歌手がゴロゴロいたわけで、アイドルだった松田聖子に歌唱力を期待したりはしなかったようにも思う。

それが30年後に改めて聴くとそれなりに歌えてるように思えるのだから、若い頃の己の耳がどうかしていたのかとも思うがそうではあるまい。

いつ頃からか素人作曲家に毛が生えた程度のストリートミュージシャン上がりの作品がヒットチャートを占めるようになり、ここ数年はジャニーズをはじめAKBやエグザイルなど数に物を言わせたグループが跋扈するようになった。

ソロ歌手にしたところで、ちょっと可愛くて作詞も出来ますよ的な個性をアピールする歌手ばかり、じっくり聴かせる歌手はほんの一握りというお寒い状態である。

(アナ雪を歌った松たか子じゃない方の歌唱力は高く評価している)

周囲が大して歌唱力のないタレント歌手ばかりだから松田聖子でも上手く聴こえる、私はそんなとこではないかと思っている。

もっと言うと、素人に毛の生えた程度のヘナチョコ歌ばかり聞かされて育った人間にはそれが標準となってしまい、基準となる作品レベル、歌唱力レベルがうーんとダウンしているのではないかということである。

意見か偏見かわからないが、人が音楽番組を見なくなったのは、歌手あるいは音楽自体の魅力が著しく低下してきたからに他ならないというのが私の結論だ。

さんざん聖子ちゃんの悪口を書いてきたようだが、誤解しないで欲しいのは、今でも私の中でアイドル的存在感を一番感じさせるのは松田聖子であり、彼女の歌なくしては青春時代は語れないと言ってもいい。

子供時代は天地真理、青春時代は松田聖子、そして中年以降は郡山二中、というのが私のアイドル遍歴である。

笑うな!


単に性悪なだけ

2016年04月09日 15:16

記事のタイトルを、「ゲストの極み乙女」にするか「ゲストの極み二中乙女」にするかで一日頭を悩ませてしまう私は、やはりどうかしているのだろう。(笑)

私はこういう言葉遊びが大好きなたちで、オヤジギャクだ何だと蔑まされようが気にしないようにしている。

センスがあるとは言い難いのは、ひとえに私の語彙不足によるもので、ボキャ貧の理由はやはり圧倒的に読書量が足りていないせいだと思われる。

それゆえ私は、できるだけ活字を読むようにと心がけながらも、テレビの方が手っ取り早いと安直に考えてしまい、いわゆる教養番組と呼ばれるEテレはじめNHK関連の番組を見る時間を極力増やすようにした。

先日放送された「100分de名著」なんかもそうで、分かりやすい解説は大変勉強になるし、これまでの知識がいかに薄っぺらで断片的だったかを痛感させられる。

物事を非常にわかりやすい例に置き換えて話す伊集院光も面白い。

先週の内容は「歎異抄」についてだった。

私はウンウン頷きながら解説者の言葉に耳を傾けていたのだが、解説中、突如私の中の悪い虫が騒ぎ始めた。

オヤジ心をくすぐる言葉が見つかったのだ。

「歎異抄」が、教えと異なることを嘆くという意味であることは、私でも知ってるくらいだから大抵の人はご存知のはずだ。

異なることを嘆く、つまり、間違っていることを嘆き悲しむと捉えていいのかもしれない。

そこで私は考えた。

将来仮に、まさかと思うが万が一、郡山二中がこれまでの透明感ある合唱をかなぐり捨て、感動とは無縁の革新的ともとれる合唱を始めたと仮定したら、きっと多くのファンは嘆き悲しむに違いない。

そうなると現状を憂えた二中卒業生有志は、学校宛に抗議文なり要望書を突き付け、早急な改善を要求するものと思われる。

その時の表題が、二中の心得違いを嘆くという意味の『歎二唱』で、署名はもちろん二中OGの連名である。

「グストの極み二中」に悩みぬいた私も、これは一瞬で思いついた。

博識な読者諸氏ならすぐお気付きだろう、薄識な私が思いつくくらいだから。

「歎異抄」を知ってる人ならわかるはず、わかった人だけ笑ってもらえればいい。

お粗末でした。(笑)

お詫びと訂正

2016年04月09日 14:19

学級委員長に対し私は土下座して謝らなければならない。

今日もご登場願わなければならなくなったからだ。

中学を卒業してもなお、現役オールスターズなみに活躍させられるのだからたまったもんじゃないと言われてもしかたない。

しかし聡明で器の大きい彼女のことだ、許していただけると信じている。

今朝のことだ。

辛坊治郎のウェークアップ!という番組を何気なく観ていたら、バドミントン選手の賭博問題を扱っていて、その時ゲストコメンテーターとして意見を求められた女性が驚くほど学級委員長に似ていたのだ。

その女性の名前は何度か耳にしたことがあるような気がしたが、どんな人なのかさっぱりわからない。

画面に現れたプロフィールを見ると、あんなに若ふうなのに何と子持ちのミセスだったとわかりさらに驚く。

いったい何者なのか?

まあそれは後ほど調べるとして、とにかく委員長と顔つき髪型が酷似しているのだ。

中学生、もとい高校生とミセスを一緒にしちゃいけないとは思うものの、似ているものはしかたない。

ここしばらく自分の命名能力の衰えを感じていたので、今日は朝からガッツポーズしたくなった。

こんなにジャストミート(と自分では思っているし、思わないとやっていけない 笑)したのは久々、◯◯以来である。

学級委員長などと融通の利かないお堅いばかりの人物だと誤解されるような命名をしたことは、明らかに私に人を見る目がなかったということだ。

実際は明るく快活な人なのだから、彼女に明るい高校生活を送ってもらうためにも、高校進学を機にこれまでの堅苦しいイメージは払拭しなけれなならない。

テキトーな命名でイメージを損なわせご迷惑をおかけしたこと、私は深く反省しここにお詫びする。

今日からあなたは福田萌ちゃんです!



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